2019年9月15日:コンテンツは不変ではなく<流行・トレンド>は「流動性」がある

アポロ オトギーク ビックリマン マイナーシール イラスト アポロ オトギーク ビックリマン マイナーシール イラスト 

 

アポロも1弾と30弾では、かなり違ってみえますな。(汗)1日1枚のペースでイラストを描く予定なのでアイキャッチ画像として公開。ブログの内容と画像が、あまりかみ合ってないのは、ご愛敬ということ。(笑)

 

で、今回のBLOGのテーマは、コンテンツについて思考していく。流行は「普遍」ではあっても「不変」ではない。という部分を分析してみた。

 

ようするに「普遍」(一般に認知されている)ことは万人受けした<流行やトレンド>としてとらえられるけれど「不変」(永遠に変わらない)とはならないのだ。

 

<流行・トレンド>は「流動性」があるから、流れという軸の中に置かれたポジションでしかない。ということは、「ニッチ」という狭い市場のなかにポジショニングした場合は、万人受けはしない。けれど千人受け、百人受けぐらいはする。(笑)

 

拡大しなくても縮小さえしなければ市場は生き残るから、それでもビジネスは成り立つ。大勝ちはできないけれど、小さい勝ちを積み重ねることでニッチ市場は支えることが可能。

 

大勝ちできる市場かどうかは「普遍」(一般に認知されている)的な<流行やトレンド>となりうるかどうかにかかってくる。例えば携帯電話は生きる上で必要なモノではない。しかしほとんどの人が購入し契約している。この便利さは普遍だから市場は大きく成長した。

 

シールと携帯電話では、どちらがニッチ市場かぐらい一目瞭然だろう。(笑)しかし80年代におけるシールブームは携帯電話と比較してもニッチではなかったのも事実だ。もっとも80年代に携帯電話は存在しないしソシャゲのアプリなどの概念もなかったのだが。

 

例えば「おニャン子クラブ」というアイドルがいる。これとおなじフォーマット型が「モー娘。」「AKB」だとするならば、フォーマット(パターン)は「不変」(永遠に変わらない)ともいえる。

 

しかし現代で「おニャン子クラブ」の話をしてもほぼ通じない。なぜならば「普遍」として若者などに認知されていないからだ。80年代では「おニャン子クラブ」は認知されている「普遍」状態だから<流行・トレンド>の軸にあったかもしれないが、現代(2019年)では軸は「流動」してしまいズレるというわけだ。

 

「流動のズレ」は、時間軸が大きく進むにつれ環境が大幅に変化すると「不変」となる事がある。例えば「時代劇」などがそうであろう。江戸時代では時代劇という概念は現代劇でしかないわけだから。

 

身近な例だと「トレンディドラマ」で、「携帯電話がある時代とない時代」で脚本は大きくかわる。携帯電話がなければ【待ち合わせ場所に遅れて到着するというシーン】で恋愛表現を演出することが可能なのだが、携帯電話がある現代ではメール1通ですんでしまう。恋愛の高揚感やモヤモヤした感情を表現するツールとして使えないので「流動」はズレてしまい「普遍」ではなくなった。

 

この場合、「携帯電話」という道具(アイテム)のみが軸からズレただけで、現代人の生活環境はあまり変化していない。だから「不変」にもならない。

 

「時代劇」が「不変」なのは、服装も生活環境も全てが現代と違うからである。ようするに未知の世界を見ているのと同じなので、SFも時代劇も「不変的なフォーマットパターン化」したといえるであろう。

 

環境に適応するのが進化であるのならば、新たな環境を作り出すのもまた進化である。

 

Aという環境に適応しても、それとは逆のBという環境を作ろうとしている波があったとして、AとBが逆転する場合がある。となると必ずしもAという流行の波に適応できてるものが進化してるとはいえない。

 

だから流行Aの波があっても、流行Bの波を逆張りして仕掛けていき、変化させるということは技術的には可能だ。大きな市場でやるには、なかなか下準備とかが大変だが、ニッチ市場だと案外いける。

 

ここ最近、俺が話題にしている「ドリフや志村けんのギャグが伝わらない現象」や「ビックリマンは知らないがワンピースマンは知っている現象」などを細かく分析してみると、こういう結論にたどりついた。

 

ようするに「流動性の軸」を考えてポジションを取らないといけないということと、「普遍を不変」にするには大幅な環境変化が訪れないと到達できない。(時代劇、象形文字、原始時代、など)

 

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